
ある日、少しだけ勇気を出して外へ飛び出したセレン。風の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、いつもの道をほんの少しだけ遠くまで歩いてみた。
空き地では、あのおばちゃん猫が今日ものんびり寝転がっている。その隣には、お隣の家でよく見かける年長の猫の姿もあった。
草むらを揺らす風はやさしく、遠くで鳥の声が重なる。知らない場所ではないはずなのに、そこだけ少し違う時間が流れているようだった。
空き地の猫は、空を見上げながらぽつりと話しはじめた。
空き地の猫昔ね、この辺りに
変わった猫が
来たことがあってねぇ
どこから来たのかも分からず、毎晩公園で寝泊まりをしていたその猫は、“探している人がいる”と繰り返していたらしい。けれど話を聞けば聞くほど、周りの猫たちは距離を置くようになった。
自分はもともと人間だった。そんな話を、真剣な顔で口にしていたからだ。
人間……?
セレンは思わず聞き返した。空き地の猫は、少しだけ目を細める。どうしても想いを伝えたい相手がいること。
そして、その出来事には“カギしっぽ”が関係していること。その猫は、何度もそう話していたという。
その言葉を聞きながら、セレンは自分のしっぽへ目を向けた。少し曲がったカギしっぽ。昔から少しだけ不便で、ほかの猫と違う気がして、あまり好きにはなれなかった。
隣で話を聞いていた年長の猫も、どこか落ち着かない様子でしっぽを揺らしていた。



……人間だった、ってことかい?
猫と人間が入れ替わる―
そんな話、普通なら誰も信じない。けれど空き地の猫は、冗談を言っているようには見えなかった。その猫が言うには、猫に話しかけられ、返事をした瞬間―まるで世界がすり替わるように、すっと景色が変わってしまったらしい。風が吹き抜け、草むらがさわりと揺れる。セレンのしっぽが、小さく震えた。
……それ、本当なの?
空き地の猫は、少しだけ笑った。本当かどうかなんて分からない。
ただ、その猫は最後にこんな言葉を残していったという。―偶然の出会いが、運命を変える。怖い話のはずなのに、不思議と胸の奥がざわめいた。その猫は、いつの間にか姿を見せなくなっていたらしい。願いが叶ったのかもしれないし、今もどこかを旅しているのかもしれない。気づけば、空はすっかり夕暮れ色になっていた。
長く伸びる影を見つめながら、セレンはゆっくり立ち上がる。
……ありがとう
空き地の猫は眠そうに目を細めながら、いつでもおいで、と小さく笑った。けれど最後に、“外の世界は、見えているよりずっと広い”と、どこか静かな声で付け加えた。帰り道、夕暮れの風は少しだけ冷たかった。
家の前まで戻ると、自分を呼ぶ声が聞こえる。心配して探していたのだろう。セレンを見つけた人は、目に涙を浮かべながら優しく抱きしめてくれた。その温もりに、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
申し訳ない気持ち。安心した気持ち。
そして―それとは別の、小さな違和感。
わたし……
人の言葉がわかる……?
その瞬間。カギしっぽが、ふわりと虹色に光った。ほんの一瞬のきらめき。
けれど確かに、空気が変わった気がした。まるで何かが、静かに動きはじめたように―。





